「学ぶ教育」と「教える教育」
田口佳史氏(株式会社イメ-ジプラン代表取締役)に学ぶビジネスを輝かせるためのヒント・・・
江戸時代では、6歳を迎えると、寺子屋、手習塾へ上がります。
いまも6歳から小学校に入学しますが、寺子屋と小学校の最大の違いは、「学ぶところ」か、それとも「教えるところ」か、であるといえます。
寺子屋と手習所には原則として始業時間をやかましくいうような規則はありませんでした。
また、授業も一斉に始まるということはありません。
各人各様に、自分に合った教科を習得するまで行い、これでよしとなって初めて次の教科へと進みます。
各自の性格や資質を尊重して、進み具合よりもむしろしっかり身につけたどうかを重視したわけです。
考えてみれば、この「学ぶ」か「教える」かの相違はとても大きいと思われます。
「教える」ことが主体であると、生徒の理解にバラツキが生じます。
教えるほうには計画があって、理解の浅い生徒がいても次に進まないわけにはいきません。
つまり、現行の「教える教育」は教師の都合優先になりがちなのです。
これに対し江戸期の寺子屋は、自主的・主体的な学びの場となっていました。
「発憤しなければ、自分から学ぼうとすること(自己啓発)はない。
言いたくてモグモグしているような、もう一息の状態にまで自分の考えを考え抜かなければ教えることはできない」。
つまり、教育の原点とは、生徒の側の学ぶ意欲にあるのであり、発憤させ、考え抜かせるのが教育なのです。
このように江戸期には考えられていました。
(清く美しい流れ/PHP研究所)
「人はあらゆる手段を使って、考えるという労苦を免れようとする」という言葉があります。
考えても答えがなかなか得られない・・・、そのうち、つらい、面倒だ、となり、誰か、答えを教えて!となります。
「常に考える」という行為は自分の人生に楔を打つようなもので、これを放棄してしまうと、主体性を喪失し、自分の信念を覆い隠してしまう結果となります。
これほど寂しいことはないでしょう。
考えることを楽しむための一つの方法は、まずは自分で“思考のプロ”と名乗ることが良いかもしれません。
つまり、自分で自分にレッテルを貼ること・・・。
“考楽家”でもいいでしょうし、“思考の大家”でもいいでしょう。
自分で自分に勝手にレッテルを貼れば、そのレッテルが全細胞にインスト-ルされ、自動的にそのような行動を開始するようになります。
一つの思考がまた、更なる新たな思考と結びつき、多様な思考を生み出していく・・・。
考える世界の奥深さ・・・、悠々と楽しんでいきたいものです。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。