自分と他人は、バラとケイトウよりも違う
加藤諦三氏(社会学者)に学ぶビジネスを輝かせるためのヒント・・・
交流分析の本に「私はリンカ-ンであるという人はクレイジ-、私がリンカ-ンだったなら~という人は神経症、私は私、リンカ-ンはリンカ-ンという人は心理的に健康」と書いてあった。
私は、この文章の中でクレイジ-と心理的に健康については賛成であるが、神経症者については少し補足したい。
「私はリンカ-ンになろう」が神経症者である。
「現実の自分」を考えない。
「現実の自分」を無視する。
自分の位置が分からない。
そして地動な努力をしない。
神経症者の意志は、たとえ強固でも自己破壊的に働く。
そこで「私がリンカ-ンだったなら~」と嘆く。
さらに「私がリンカ-ンになれないのは、周りが悪いからだ」となる。
よく「自分を受け入れる」と言う。
私自身もよくこう書いてきたが、神経症者はそもそも「自分がなんだか分からない」のだから、自分を受け入れる受け入れない以前の問題なのである。
自分の位置が分かっていない人は、人を見ると自分と同じ人間だと思ってしまう。
自分はサルで相手は魚だということが分からない。
自分はサルで相手は魚だと分かるから、自分は泳げないということが受け入れられる。
泳げないということが分かるから、自分は木に登れるということに気がつく。
自分は泳げないということを認めないサルは、いつまで経っても自分は木に登れるということに気がつかない。
バラのそばに生えていたケイトウが、バラに「あなたは、なんて見事な花でしょう。
神々からも、人間からも可愛がられていますね。
あなたの美しい姿と、いい香りが羨ましいと思います」と言う。
すると、バラは「いいえ、私は、少しの間しか命がありません。
誰も折らなくても散ってしまいます。ところがあなたは、いつも花が咲いて、そういうふうに若々しく生きているではありませんか」と答える。
バラとケイトウよりも、人はお互いにもっと違う。
それなのに比較する。
(「弱さ」を「強さ」に変える心理学/PHP研究所)
「サルの水練、魚の木登り」という格言をご存知でしょうか。
サルは周りに言われます。
「木に登るよりも、水で泳ぐほうが偉いんだぞ」と・・・。
一方で魚も周りから言われます。
「水で泳ぐより、木に登るほうが偉いんだぞ」と・・・。
サルが木登り、魚が水練するのは当然ですが、サルが水練、魚が木登りを目指してしまったらどうでしょう・・・。
いつまでたっても心が満たされることはありません。
私たちはこのような見当違いのことをしてはいないでしょうか。
チュ-リップの種をいくら蒔いてもバラの花は咲きません。
バラの種をいくら蒔いてもチュ-リップの花もまた咲きません。
これらの話は、自分の位置を、または自分が何者なのかを知ることの大切さを教えてくれています。
これからは誰かと比較することにエネルギ-を注ぐのではなく、自分を知ることにエネルギ-を注いでいきませんか。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。