“大物”を大量生産した吉田松陰の教育法
草柳大蔵氏(評論家)に学ぶビジネスを輝かせるためのヒント・・・
師弟間に心の交流を起こさせたのが、吉田松陰の「松下村塾」ではないかと思う。
『私塾』という本の中に松陰の教育法が紹介されているが、『孟子』なら『孟子』を高杉晋作、伊藤博文、あの辺の足軽侍の子弟が習いにくる。
松陰は黙って、まず一冊ずつ読ませる。
そのまえに、自分がここがいいと思ったところに付せんを置いていけといって、みんなに和紙を細かく切って持たせる。
弟子たちはここと思うところに、つばをつけてそれをはっていく。
ところが、つばだからだんだんはがれてくる。
だから、晋作も博文も大急ぎで読まなければならない。
一冊読み終わると、「読んだやつからオレのところにこい」といって、付せんの入った本を持ってこさせる。
「おっ、高杉、おまえはここが大切だと思ったのか。おまえ、どうしてここが心に残ったんだ、いってみろ」という。
高杉晋作は、「私は、天下というものを考えるうえにおいてこの言葉が大事だと思う」
「そうか、孟子がこの言葉を使ったのは、こうこうこういう意味だ」といって、そこで初めて説明してやる。
つまり、理性も、感性も、父母の教えも、人格形成も、違った人間に同じものを読ませて、同じ講義を聞かせるのは教育ではない、何がその人間の心を染めたのか、その言葉について解説してやるのが師というものだ、というのが吉田松陰の教育哲学なのである。
(水は深く掘れ/三笠書房)
教育を考える上で噛み締めておきたい言葉があります。
画家の中川紀元氏の「生徒がリンゴをどう描いたかを採点するな。リンゴをいかに見たか、その眼差しを評価しよう」・・・。
さらにルソ-の「この世の中に、よくできる子とできない子はいない。学習の速い子と遅い子がいるだけだ」・・・、という言葉です。
その人なりの個を生かそうという教育において、違った人間に同じものを読ませて、同じ講義を聞かせることほど愚かなことはありません。
家庭教育、学校教育もそうですが、社員教育においてもこのような傾向が強いのではないでしょうか。
本来、教育に携わる人間は、教える教科の知識だけではなく、上は天文から下は地理の知識と、またさらには知識を見識に変える力が必要とされます。
多様性が叫ばれる時代、これからのリ-ダ-はまさに吉田松陰型でなければ務まらないようになることでしょう。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。